村岡三郎

1928-1949(0歳~21歳)

1928(0歳)

6月25日5人兄弟の3男として大阪に生まれる。 父清三郎は職業軍人で法律の文官。9歳年上の長兄利清は、絵画を小磯良平に師事していたという。次男太郎。

1929(1歳)

1930(2歳)

1931(3歳)

1932(4歳)

1933(5歳)

1934(6歳)

桃谷幼稚園入園。

1935(7歳)

1936(8歳)

大阪市立味原小学校入学。

1937(9歳)

1938(10歳)

この頃、長兄から寝るときに「地球がどうしてできたか」の話を聴く。村岡はこの時の情景を今でもはっきりと記憶しており、のちほどの天文への興味のひとつの大きなきっかけ(=原体験)と捉えている。

1939(11歳)

この頃、一銭銅貨を金槌で叩いたり、線路に置いて潰したりして遊んでいた。親父に見つかり、貨幣を故意に損傷するのは犯罪行為だとこっぴどく叱られ、庭の松の木に後手で一晩絡められた。

1940(12歳)

この頃、長兄亡くなる。

1941(13歳)

大阪市立味原小学校卒業。

1942(14歳)

大阪府立高津中学(現在高津高校)に入学。
この頃から天文に興味を持ち、望遠鏡を自作して月を見た。クレータに仰天。

1943(15歳)

この頃から天文書を読み始める。

1944(16歳)

3月 飛行機に憧れて海軍甲種飛行予科練習生に志願。
4月 海軍甲種飛行予科練習生神奈川県藤沢海軍伝測学校入隊。航空電波探知器の搭乗員養成所。当時最先端の八木式空中線(=アンテナ) を使った航空電波探知器とナビゲーターを操作していた。

1945(17歳)

5月 九州の佐伯航空隊に実践部隊として配属。
7月 偵察要員はいらないということで、特攻隊に配属換え。特攻要員として待機。待機中に木で骨箱作り等を行っていた。

8月 終戦。大阪府立高津中学(現在高津高校)に復学。

1946(18歳)

次兄太郎の満州での戦死広報が届く。 1975 年「タナトスB」参照。

1947(19歳)

大阪府立高津中学(現在高津高校)卒業。大阪市立美術研究所彫刻部入所。
終戦で束縛から開放されて、自由で1人で成立する活動を行ないたいという気持ちから美術を選択する。戦争があったがために美術に進んだことになるのかもしれない。戦争がなかったら天文学を専門としていたであろう、と村岡は言う。この二者択一は後年まで村岡の意識の中に自覚的/無自覚的に跡を引き続ける。究極的には、この「知る」という事へのふたつの方向=態度(主観と客観或は芸術と科学)を一元化したいというオブセッションにも似た予感が、村岡の製作活動の通奏低音として鳴り続けることになる。従って出発点から、いわゆる「美術」の範疇とは違った意図を持った(はじめから「美術」の枠をはみ出した)活動として、しかしとりあえず美術の型=制度を借りた形としての摸索という位置付けの活動になる。この点は、村岡の共感を持つ作家をながめてみただけでも分かる。ミケランジェロよりダ・ビンチが好き。デュシャン、キリコ、マンゾーニ、ロシア構成主義のタトリン(飛行機等も作っていた)、ボイスの活動に共感を持つ。美術を目的化しない。知りたいという欲求(=態度)からすれば基本的に根は同じではないかとも思う。一人称の問題と三人称の問題。松澤宥の「宇宙の解明を科学ではなく美術としてやりたい」という言葉の裏には、そういう事をやらない美術は美術と言えない、という攻撃的な意味をも含んでいる。埴生雄高は「宇宙を視野に入れない思想は、思想とは言えない」と言った。
絵画をやりたかったが彫刻部しか定員空きがなかったため彫刻部に入る。2、3点作ってみておもしろくなる。抽象に入った理由も、偶然性が強い。裸婦像のおしりが次の日に落下していて、その形がおもしろかった。粘土を持ち帰り家で粘土を机などにぶつけて、つないだりして遊んでいたのが今から思えば抽象のはじまりか。だんだん裸婦は作らなくなっていった。

「塩焼小屋」40×30cm oil on Canvas

塩焼小屋

塩焼小屋
(Photo by Hiromu Narita)

初めての油絵。海(堺の石津)を描きに行ったが、海を描く気にはならなかったので、あたりを見回していたら裏に小屋があったのでそれを描いた。空の描き方に困ったのを覚えている

1948(20歳)

1949(21歳)

「大阪市展」大阪市立美術館(大阪)大阪市長賞2席
「首」(石膏)

首

妻倭子をモデルに作った具象作品。これが賞を取り、美術へ反対だった父親がびっくりして、見直す。後、もう一点「首」が現存する。これは、他の具象作品は、終了時にたたき壊してしまったが、妻の作品は壊すわけにもいかないので残った。(妻倭子所有)

「西宮市展」(兵庫)受賞
「男」(石膏)