村岡三郎VS酒井忠康「原点の感覚に翻訳し直すための作業」

「なぜ木を使わないかというと、木が好き嫌いとか、素材として鉄より硬くないとか、作業がしにくいとかそういう理由ではまったくありません。木にまつわる日本人の考え方、自分も日本人なんですが、自分をも含めてそうであるがゆえに異議を申し立てたいということがあって、私は将来いっさい木を使わないという動機のようなものがあるんです。それは実は先ほどおっしゃいました戦争体験とかなり関連してくるんですが。

私は戦争中に、九州の航空隊で任務についていましたが、特攻に行く連中がその基地から飛びたっていくわけです。そして非常に簡単に死んでしまうわけです。死んだ人の遺骨を、その親元に送り返す必要があるわけです(もちろん遺骨などあるはずがありません)。それで搭乗勤務の間にお前らそれを作れといわれたんです。いわゆる骨箱です。そのときに材料がないもんですから宮崎県延岡の山に行きまして、森林から木を伐採するわけです。少しそれを板状に木工加工しまして、しばらく放置して乾燥させ、教官がわりとそういうことが好きな人だったので、全部ほぞを作って、釘はいっさい使うなと。釘を使うと木が神聖性を失うと。この木の神聖性を失うということは、この中に入れた遺骨をぼうとくすることになると。したがっていっさい釘を使うな、木目を大事にしろと。そういうふうなことを搭乗勤務の間にずいぶんやらされたんです。

僕はそのとき非常に言い知れぬ矛盾を感じたわけですね。中に入れる物が骨じゃなくて、その人の使っていた道具ですとか、日常物を入れたわけですが、そのときにその教官が日本の精神構造の中で、木というものはどういうものかということを、ひつこく僕らにいいきかすわけです。当時、死と隣合わせの日常性の中にあって僕が感じとった“死”は、無機的で空虚で、そして限りなく悲しいものでした。それを固有の美意識で包み込み、それによって1個の人間の死をすり変え、またそれを増幅することの言い知れぬおぞましさというのが、身体に突き刺さったわけです。これはしゃべり出すとたいへんなことになるわけで、僕は日本文化というものを否定しているわけじゃないんです。ただ自分の体験を通じて個人的にもった矛盾ですね。そのとき17、18歳で、非常に精神状態が不安定で柔らかいですから、1つの傷という形で記憶に残ったわけです。だからものを作る仕事をやり始めたときに木を使わないということは、そのことを忘れないということの意思表示もあったわけです。それをなお持ち続けているということは、あくまでも個人的偏見によるものですが、それはまた日本人としての個人の歴史です。

こういうことはこういう場所で言うべきことではないと思うんですが、あえて質問があったので正直に言っておきます。」

(月刊『アトリエ』 1992 3月号より)