カッシーラー『シンボル形式の哲学』より

「プラトンはプロタゴラスの感覚論的認識理論との論争において、特殊な形式の想起のもつ確実性つまりムネーメー[想起]に注意を向けるように促している。彼に言わせれば、<知>と感覚的知覚との等置を論駁するにはそれだけで十分だというのである。こうしたプラトンの抗議は、「記憶」という現象そのものを認識心理学の出発点にして要に据え、それを純粋に自然主義的な考察の枠内で捉えようと試みることによって弱められるものではない。こうした「ムネーメー[有機体記憶]」の生理学理論を体系的に構築したのはとりわけリヒャルト・ゼーモンだが、-最近ではバートランド・ラッセルが意識に関するおのれの説明と分析を基礎づけようとしてこの理論に言及している。ゼーモンによれば、われわれが<記憶>と呼ぶものは、「意識」の領域にはじめて現れてくるといったようなものではなく、われわれはそれをあらゆる有機的物質とあらゆる有機的生命がそなえている一つの基本的属性とみなさねばならない。生けるものはすべてある歴史をもっているということ、つまり、生けるものが特定の現在の作用に反応する仕方は、その瞬間的な刺激の性状にだけではなく、その有機体に与えられた以前の一連の刺激にも依存しているということこそが、<生けるもの>と<死せるもの>とを区別するのである。有機体に与えられる印象は、たとえその原因が存在しなくなっても、ある点では依然として保持されている。というのも、どのような刺激も特定の生理的な<痕跡>、つまり「エングラム[記憶痕跡]」をあとに残し、そして、この <記憶痕跡>のそれぞれがそれはそれでまた、有機体が将来同一のあるいは類似の刺激に反応する仕方をともに規定することになるからである。こうして、われわれが意識的知覚と呼ぶものはすべて、けっして身体、特に脳と神経系の現在の状態にだけではなく、この両者に及ぼされた諸作用の総体に依存しているのである。」

(カッシーラー『シンボル形式の哲学』第三巻認識の現象学第四章時間直感木田/村岡訳より)