廣松渉『哲学の越境』、『表情』より
「第一章「表情体験的世界からの再出発」(原題表情現相論・序説)は、著者の世界了解の構えを表明するものとなっております。(「表情」とここにいうのは、語の最広義でのそれであって、情動興発性・行動誘起性のこもった森羅万象の展らけ方の謂いです)。-哲学は“真に存在する世界”の探求を標榜しつつも、そのさい“真に存在する世界”なるものを実際問題としては既成理論の思い描いている相で了解したうえで、それの“具体相”をあれこれと諍うのが普通です。尤も、“哲学革命”の時期には、旧来の世界了解が抜本的に改められ、“真実在”相が一新されます。近代西洋哲学はデカルトの時代にそのような“哲学革命”の一つを達成し、新地平を拓きました。そして以後久しく、いわゆる“科学的実在”界が“真に存在する世界”と了解され、哲学界もそれをフレイム・オブ・レファレンスとしつつ理論構築を進めてきた概がありました。哲学界においては、なるほど、伝統的な形而上学との折衷的な議論が折々に登場しましたし、人事界・精神界については必ずしも“科学的実在”像が受容されたとは言えないかもしれません。がしかし、自然界については、“自然科学的実在像”が大枠的には追認されてきた、と言って大過ない筈です。ところが、前世紀の終わりに近い頃に、“科学的実在”を“真実在”と了解する世界観を卻け、如実に体験されるがままの現相的世界に定位して再出発する動きが世界各地で見られるようになりました。その中には、如実の生体験を顕揚したものもありましたが、その流派は現実問題として“科学的実在”像への内在的批判力が弱く、“科学的実在”論を厳しく批判する流派はフェノメナリズム的な構制を(少なくとも出発点においては)採ったのでした。フェノメナリズム(現相主義)は、 見たり触れたり嗅いだりするがままの、現相的世界を本源的・第一次的な世界だと見做す立場であるとはいえ、実際問題としては、情動・欲動といった方面は棚上げして、知覚的に展ける世界(知情意の三分法に仮託して言えば、感性的ではあれやはり知に展ける世界、この意味での認識的世界)を“真実在”とするのが基調です。これに対して、マックス・シェーラーは、知覚的に展ける世界と情意的に展ける世界を“併置”し、両者の等根源性を主張しました。これを承けて、エルンスト・カッシーラーは、知覚的世界と情意的世界との等根源的な併存ではなく、表情性を帯びて展ける世界こそが根源的であることを示しました。これにやや先立ってハイデッガーは、道具的有意義性を有って人間を内存在させている世界、これが人間にとって第一次的な世界であることを論じておりました。著者としては、ハイデッガーの謂う道具的有意義性・用在性(ツーハンデンハイト)では狭すぎると考え、むしろカッシーラーの謂う表情性を帯びて(知情意一体的に)展ける世界に定位すべきだと考えます。但し、著者の立場は、象徴(シンボル)機能を以って精神の根源的機能(ウアフンクチオン)とするカッシーラーの立場とは相別れます。そもそも、表情性を帯びて展ける世界は、再出発の起点ではあっても、著者にとってはそれがそのまま「真実在の世界」というわけではありません。著者としては、しかしともあれ、フェノメナルな世界とはいっても、単に知覚認知的に展ける世界ではなく、実践的関心の態度性に展ける世界(この知情意一体的に展ける世界をとりあえず「表情体験的世界」「表情性を帯びて展ける世界」と呼んでいる次第なのですが)、これに定位して実践的世界の存在構造論ひいては行為論を展開する構えを執ります。-蛇足めきますが、「表情体験的世界からの再出発」と謂うさいの「表情」が、人間や動物の顔面表情といった狭い意味でのそれではないこと、また、人間や動物の身振り・態度・声調といった範囲のそれでもなく、要するに知情意一体的に体験される世界現相、実践的な関心の態度性に展ける世界現相の謂いであることを予め御理解いただけたと念います。-ハイデッガーやカッシーラーが先駆的に拓いたこの視界がその後の哲学的理論展開において十全に継承・展開されていないのは、彼等の理説のままでは戴けないという事情があるにしても、何とも遺憾です。今日アカデミズムにおいて有力な二流派の一つ、分析哲学派は“科学的実在”像を容認するかの風情で“真に存在する世界”の研究は諸科学に委ね、もっぱら“言語分析”に傾注しており、もう一つの現象学派は“生活世界(レーベンスヴェルト)”への定位を図っているとはいえ、その“生活世界”なるものが知覚認知的に展ける世界の埒を幾何も出ぬ域のものになっております。出発点のヒュポダイムから建て直す必要のある所以です。デカルトの時代に次ぐ今日的“哲学革命”にとって世界観の構えの一新が必須であることに鑑み、一見卑俗にすぎようとも、表情体 験的世界からの再出発という試行を顛から笑殺しないで頂き度いものです。」
(廣松渉『哲学の越境』はしがきより)
「「表情」という体験的現相(フェノメノン)を正しく把え返すことが、他者理解論や間主体性論を確立するうえで、のみならずまた、革らしい世界観を構築する上で、戦略的な一拠点となるであろうことは、かなり以前から哲学者たちの自覚するところとなっている。それにもかかわらず、クラーゲスやカッシーラーやメルロ=ポンティなどの壮挙が谷って以降、これというほどの表情現相論は管見にふれない。それというのも、おそらく、表情論の理論的確立が爾程左様に難事業である所為なのであろう。表情理論の確立を難渋せしめる所以のものは、それを遂行するためには、表情現象なるものについての強固な既成概念を根底から突き崩し、発想と視覚を転換して如実の表情現相を全般的に見定めるだけでなく、そこから再出発して旧来の存在論的了解そのものを改め、いわゆる心身関係やいわゆる主客関係についても革らしい体系的配備で以って説明し直すことが要件をなすことにある。」
「われわれに言わせれば、純然たる知覚現相などというものは如実には存在せず、如実の現相はその都度すでに“情意的な契機を孕んで”おり、本源的に表情的である。より正確に言えば、如実の環境世界的現相は本源的に情動的価値性を“懐胎”せる表情性現相である。
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現相的分節を記述しようとするさい、人はとかく、視(いろ)・聴(おと)・嗅(におい)・
味(あじ)・触覚(はだざわり)というように当初から五感に対応づけた分類相で記載しがちであるが、これは反省的に規定された種別ではありえても、到底、如実の体験相の直截的な記述ではない。如実の体験相について論述を図るにあたり、われわれが右の方式を採らないのは、それが己に概括的分類であるという廉でのことではない。もしそうであれば、色、音、香、味、・・・・・の夫々を詳細に区分して指称する配備を案出すれば体験相を可及的精確に記述できるという話になることであろう。要は、俗に特個的な感覚と称される次元での現相態からして、その都度すでに或る表情価を帯びている事実を逸せぬようにすることである。
現実の体験現相においては、ピカッ・キラッ・テカッ・チカッは、啻なる光覚ではなく、そこには一定の表情価が“籠って”いる。この間の事情は、ピカピカ・キラキラ・テカテカ・チカチカと表現してみれば一層容易に納得されよう。同様に、白々・黒々・赤々・青々は啻なる色覚ではなく、ネバネバ・スベスベ・ベトベト・ツルツルは啻なる感触ではなく、温々・冷々・熱々・寒々は啻なる温度感覚ではなく、長々・短々(ちまちま)・広々・細々は単なる長短広狭ではなく、ピュピュ・ノロノロ・ズンズン・グズグズは単なる遅速ではなく、・・・・・いずれも表情性の籠った現相である。
翻って省みるに、明るい気分、暗い気持、黄色い声、赤い気焔、暖かい声、冷たい目、高い音、低い声、尖った味、丸い味、・・・・・といった体験的現相の覚識に即すれば、明暗は単なる光覚ではなく、色合は単なる色彩感覚ではなく、高低は単なる布置感覚ではなく、形状は単なる形態感覚ではなく、・・・・・いずれも表情的に感得される現相態である。
右に一端を指摘したところからも瞭らかな通り、俗に“要素的な感覚的体験”と称される次元からして、現相態は表情価を帯びている。表情性知覚こそが如実の体験相であり、“感覚相成分”と“情意的成分”との“分出”のごときは、たかだか反省的区別たるにすぎない。」
さらに廣松の論考は進む。
「生体は振動系であること、この事実に留目することがわれわれの戦略的な一要件をなす。振動系とはいっても、それは、単純な力学的振動装置ではなく、多種多様な物理的・化学的振動機構に支えられた、多種多様な振動の重合系である。それは非線形の非平衡状態を基底にしているにせよ、揺動( flactuation)の引込み(entrainment)による同調化の機制によって、マクロには各位階・各位層の準定常的な振動系を形成しつつ、それらを重合している。そのため、生体は、揺動的な不安定性を微妙に孕みつつも、全体としては相対的に安定した振動系を呈する。
動物の主体が、常識的に言って、心拍・脈動・呼吸などとも相即する振動体であること、いわゆる生物体内時計によるリズム的調律を受けた周期的振動体であること、この次元のことは誰しも承知している。
ところで、生物体内部での目立ち易い振動性器官である心臓を例にとって言えば、この臓器が一定のリズムで振動するのは、心筋細胞の固有振動が同期化(synchronize)することによってである。-因みに、心筋細胞を一個一個分離した状態に置いてみると、各々が自律的な拍動を示し、振動数はまちまちである。が、それら分離された諸細胞を余り離散しない布置に置いておくと、次第に集合して塊を形成する。そして、この塊全体が今や一つのリズムで伸縮的に振動する。つまり、各細胞の振動が同調するような引込み現象が成立するのである。」
これはまさに、村岡の75年の「心臓音」、72年の共同行為「この偶然の共同行為を一つの事件として(三人の心臓音)」、75年のコンプレックス・ワークB「晩餐-人間再現」へと繋がっている作業と一致する。
「(中略)
神経細胞は、勿論、化学的ないし電気的刺激によって一過性の興奮を呈するが、定常的にリズム興奮しており、その固有振動リズムが刺激によって乱されることが情報伝達の一様式をなす仕組みになっている。
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ここでは、生体が振動系であり、振動的伝達体-振動的反応体であるという事実を銘記しておけば足る。
生体というものは内部的機構において振動系・共振系であるだけでなく、対外的な刺激受容・反応の場面にあってもやはり共振的であるということ、この事実にも素人なりに論及しておきたい。
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こうして、音声を知覚する場合、可視対象物の振動を知覚する場合、可触対象物の振動を触知する場合、対象的振動と共振的な生体振動が発生すると言うことができ、より剴切には、対象的振動体と生体的振動態とを包括する一大振動系が形成される、と言うことができる。
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著者の観点からすれば、表情感得・情動反応・協応行動の場面においては、動物の個体は自閉的な系ではなく、単なる比喩ではなしに、皮膚的界面を超え出た大きな振動装置系の部位として組込まれた相にある。そして、嚮に述べたように、当の巨きな単一的振動装置系の特定諸部位(つまり、常識的には各個の身体的主体と呼ばれるもの)が、共振運動状態を体現する。正確に言えば、むしろ、それらは単一的振動系の特異的部分機構体の相にある。
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謂う所の振動装置系は、それの関与する振動体験によって陶冶されてヒステレシスをもつ。この系の特異的部位たるいわゆる個体的生体に止目する流儀で語れば、それは動物行動学に謂う「生得的解発機構」を備えているにせよ、この機構自体も陶冶され再調整されて行く。表情感得・情動反応の共感的体験過程は、この機構と振動の機制に俟つものであると共に、それを通じて、いわゆる個体的生体の陶冶を進捗せしめる当の発達過程でもある。」
(廣松渉『表情』第三章表情現出と共軛的理解より)