廣松渉『哲学の越境』他より

さらに、この触知をベースに据えることは、新たな世界観への出発点となる、と廣松渉は言う。 「能知と所知とは、われわれの如実の体験においては、必ずしも空間的に分離していない。少なくとも触知の場合はそうである。対象を例えば指先で触知する場合、われわれはまさに指先で感じ取るのであり、そこに現存するのは能所一如の状態相である。そこでは、知られる側と知る側とは分離しておらず、まさしく一如である。われわれは、この触知の構図を感性的知覚一般に推久することが可能であり、そのことによって-身体の内部的空間に「心」を閉じ込め、その「心」の内部に「心像」を収蔵させるというかの曰く付きの構図を免れることができる。

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筆者としては、触知的構図をモデル化すること自体に格別の意義を認めているわけではない。主眼は飽くまで「物-心」関係ならびにその一部たる「心-身」関係のアポリアを生ずる所以のパラダイム、就中かの「三項図式」の排却に存する。しかるに、「視覚的構図」、しかも錯認された相でのそれが、謂うところの三項図式を暗黙のうちに支え、強固な既成観念の因をなしているかぎりで、敢て「触知的構図」をタクティカルに対置しようと図ったにすぎない。蓋し、触知の構制に定位しつつ、既成の臆見を排却して如実の相に即するとき、もはや、意識作用が意識内容を介して意識対象に間接的に関わるという図式(知覚と表象との区別といった他の論脈での問題とも絡んで“説明”のために案出された図式)は無用に帰する。その地平においては、身体の内部に「心」が在り、その心の内部に「像」が在り、その像を能知的自我が“見る”というかの構図(つまり、「物-心」「身-心」関係のアポリアを必然的に生ぜしめるところの、所知と能知とを空間的に分離する原基的構図)はもはや全く不要となる所以である。」

(廣松渉『哲学の越境』第二章物心の二元論を克服する前廷より)

村岡はここに至って、念願の「二元論の克服」の入り口に立ったことになる。