カッシーラー『シンボル形式の哲学』より
「ホッブスは、おのれの体系の諸原理からすれば感覚をこそ記憶の前提条件と考えなければならないのに、他方では、彼にとって記憶の方が感覚そのものの構成分になってしまうのである。「(中略)われわれが感覚ということで通常理解しているのは、その諸表象を媒介にしてなされる対象についての判断、つまり諸表象をたがいに比較し、たがいに区別することによってなされる対象についての判断なのであるが、しかし、こうした比較や区別は必然的につねに記憶の作用と結びついており、この記憶の作用によってはじめて時間的に先なるものが後なるものと突き合わされ、一方が他方から分離されうるものだからである。」ホッブスによれば、こうした事態はとりわけ触覚現象を考察し分析してみれば明らかになる。その理由は、すべての触覚的質が触覚によってだけではなく、記憶によっても知覚されるというところにある。「それというのも、ある一点でいくつもの事物に触れたとしても、それらの事物を感じとるにはその一点の流れるような移動、つまり時間が必要であるし、時間を感じとるには記憶が必要だからである」。事実、最近の一連の研究が触覚の領域に関して特に明確に証示してみせたように、運動、したがって時間は触覚現象そのものの形成要因の一つなのである。それゆえ、触覚現象に専念してみることは、知覚心理学において永きにわたってほとんど独裁的な支配をつづけてきたあの「時間原子論的傾向」を否認するのにとりわけ役立つことであろう。こうした専念によって明らかにされたのは、触覚の-<堅い>とか<柔らかい>とか、<ざらざらした>とか<すべすべした>といった-まさしく基本的な質は運動によってはじめて生じるものであり、したがって、われわれが触感をある一瞬に限局されたままにしておくなら、それらの質はその瞬間内ではもはや与件としては見いだされえないということである。こうした質へ導いてくれるのは、時間的に切りはなされた、特定の瞬間を満たすだけの刺激とそれに対応する感性的感覚でもなければ、瞬間的な感性的体験の単なる総和でもない。むしろ、われわれがそれらの質をその客観的「原因」という側面から考察するばあい、そこで問題なのは刺激過程、-つまり、個別的な「感覚」によって応答されるのではなく、もはやいかなる時間的構成分をも本質的なものとしてふくんではいない一つの全体的印象を構成するような刺激過程-なのである。してみれば、われわれが先にヒュームによって記述されているのを見とどけた関係が、ここではまったく逆転することになる。つまり感性的な諸体験のある継起から時間の流れの表象が生じるのではなく、ある特定の時間的過程を捉え分節化することからこそある特有の感性的体験が生じてくるのである。つまり、一見すこぶる奇妙に思われようが、印象の系列から時間の観念が「抽象される」のではなく、-継起というかたちで以外捉えられない系列を通覧することが、結局はあらゆる継起をおのれから払い落とし、統一的で同時的なものとしてわれわれに対峙するように思われる成果にたどりつくことになるのだ。ここで、<記憶>の機能がけっして過去の印象の単なる再生に限られるものではなく、この機能には知覚世界の構成に際して真に創造的な意味が帰属するのだということ、-つまり、<想起>は以前に与えられた知覚を単に繰りかえすだけではなく、新たな現象と新たな与件とを構成するのだということが、ある新たな側面から明らかになる。」
(カッシーラー『シンボル形式の哲学』第三巻認識の現象学第四章時間直感木田/村岡訳より)