廣松渉『哲学の越境』、『共同主観性の現象学』より

村岡が美術に於いて探求している方向を、哲学として探求してきた廣松渉の論考をここで挙げておくことは、双方の探求している事をあい照らすという意味から、無駄ではあるまい。(但し、この時点では村岡は廣松のこの論考を読んでいるわけではない。時代の記憶-シンクロニシティとしてここに引用する。後に確認済み。)

「体験的現相を分析的に記述するさい、既成の手続きにおいては、いわゆる知・情・意の三区分をおこない、対象「知」の領界の基底層として、何は措いても先ず「感覚」の次元に焦点を向けるのを常套とする。そこでは、往々、嚮にも一言したように、当初からいわゆる五感に対応づけた分類的記述が試みられさえもする。だが、これが如実の体験相の直截な描出には相応しくないこと、このことについては予め絮言するまでもあるまい。
そこで人は、明るい・暗い、暖い・寒い、熱い・冷い、痛い・痒い、甘い・辛い、酸い・苦い、黒い・白い、赤い・青い・・・・・・というような詞を用いて感覚的体験の所知相を記述しようと図る。だが既成の分節法(これと相即的な既成の用語体系)においては、色や音に関してはまだしもかなり詳密な記載が可能だとしても、実際問題としては、香や形に関してさえ早速に語彙の貧困に悩まされる。-惟えば、日常的には雑草とか雑魚とか呼んで一括されるものであっても、生物学者は種別的に分類記載できるだけの弁別的認識とそれに見合う用語法の体系を持っている。しかるに、いわゆる有機感覚や触感覚のたぐいはおろか、香や形に関してすら、その道の“専門家”も心理学者も、十全な分類的記載用語を持合わせていない。-まずは、この分類的記載語の不備という制約からして、所与の感覚的現相を分類語の援けを借りて確定的に記述することさえ困難である。」(廣松渉『哲学の越境』第一章表情体験的世界からの再出発より)
このように廣松の言を待つ間でもなく、触覚についてわれわれは分節化の能力に乏しい。すなわち触覚については「鈍い」。このことは逆に言うと、「解釈の余地のない直截な表現」が成立し得ることを示している。このことを村岡は、アーティストとしての直感で掴んでいた。 しかも、「発生論的にみるとき、(中略)感覚の源初的形態は“体性感覚”であり、外官の源初形態は触覚である。味覚・嗅覚・聴覚・視覚の諸器官はいずれも皮膚の触覚器官から分化・進化したものであることは、絮言するまでもない。」

(廣松渉『共同主観性の現象学』第一部共同主観性の発生論的基柢より )

村岡がこの仕事で、触知をベースに据えたことは、さらに根源的な意味を持ってくる。「時間」、さらには「記憶」へと。 (97年「記憶体」参照)