村岡三郎「消失点・消失点 ノンサヴォワールへの旅」
人間の眼球の視床の一点に像を結ばない箇所があるとされているが、又 私が以前見た映画「バニシングポイント(消失点)」のラストシーンで、逃げ延びて行くトラックが一本の遥か彼方で、その姿が突然かき消すように消えてしまうという感動的な場面を覚えているが、一般的には消失点は、周知のように平面上の固定した視点による透視画法の焦点を指す。これは歴史的に人間の知によるイリュージョンであり、当然我々の日常空間には存在しない。しかし、たとえばその無限への思念はスピノザ(1)の言う内部と外部、すなわち有限と無限定の区別を無効にしてしまうような意味をも包含している。
そしてこの消失点・無限への観念の旅はおそらく唯ひたすら、見返りの無い連続性への労働が伴う、まるでシジホス(2)のように0 x 0 x 0・・・・・・、(-)x(-)x(-)・・・・・と、そしてこの不条理の旅に駆り立てるものは何か、更なる知への好奇心か、又それに伴う自分探しへの欲求か、いずれにしてもそれへのエネルギーの要因に、あの「自同律の不快」(3)が私には大きく参与していると思われる。そしてこの意味の空白への旅の累積の果てに、知を越えたノンサヴォワール(非・知)による透明なエクスタシー(忘我)が立ち上がってくる筈であり、そしてこの消失点こそが実は150億光年彼方(過去)の時空を飲み込んだ、われわれ宇宙の創始、ビックバン瞬間の一点でもあると私は直感している。・・・神の出番は無い。
しかし この旅へは表現(芸術)として可能かどうか 私には尚不明である。
注(1)スピノザの無限性
普通 内部と外部というのは 有限と無限定とに区別されるが、それを無効化すること。一般的に例えば、その一つとしてのバニシング・ライン(地平線、水平線)は中世まではこの世界は周縁があり、有限と無限定とに区別されていたが、コロンブス以降 地球が球面であることが明白になり、その周縁がなくなり事実上世界が閉じられ、逆に世界が「無限」化されたということ。
注(2)シジホス
アルベール・カミュの「シジホスの神話」による人物で、神に山の裾にある等身大の岩石を山の頂上まで押し上げる罰を受けるが、その岩石を頂上に押し上げた瞬間また裾野に転がり落ちる、そして又押し上げるそのくりかえしが永久につづくという救いようのない刑罰。彼はその果てしない労働の中で、ある時ただ転がり落ちる岩石を見ながら山を降りる一瞬、不条理を越えた恍惚と安らぎ(エクスタシー)を感じとるというもの。
注(3)「自同律の不快」
「自同律」は「同一律」と同意語でこの原理を最初に哲学的原理として掲げたのは、パルメニデスでこれを論理法則として確立したのはアリストテレス「存在する物は存在し」「AはAである」とするもの。
埴谷雄高氏の言う「自同律の不快」とは私は必ずしもこの自明性から逸脱またそれからの超越性を意味しているとは思わない。サイードの言葉を引用すれば「第一に故郷を甘美に思うもの、第二にあらゆる場所を故郷と感じるもの、そして第三に全世界を異郷と思うもの・・・」とあるがこの第三の全世界を異郷と思うものとは、あらゆる共同体の自明性から超越することではなくむしろそこに踏みとどまって、その自明性に常に違和をもち、それを絶えずディコンストラクトしようとするもので、一つにはそれ故にこの中から「自同律の不快」が立ち現れてくるのではと私は判断する。
村岡三郎「消失点・消失点 ノンサヴォワールへの旅」(掲載情報不明)