千葉成夫『村岡三郎の作品について』より
オリーブの山の南の斜面に、帆布を巻き付けた酸素ボンベと長方形の大きな鉄板が、それぞれ穴に立っている。それぞれにコードがくっついているが、前者には牛窓の海中に、後者には町中の電柱に、セットした集音マイクロフォンからの音が、電話回線によって送られてきている。従って、作品のそばに寄ると、音が聞える。海中と町なかということをあらかじめ知っていると、前者がくぐもったゴボゴボというような音、後者はざわめきの音とほぼ判るが、そうでないと、なにかよく判らない「音」として聞こえる。また、町なかの古い銀行の建物の中に、他の6本の酸素ボンベが置かれた。我々はここで、海と町とが山上の作品の所で音によってつながり、かつ、視覚的にもつながるという体験をする。山の下の町のなかの開放状態の音は、裸の鉄板に開放状態で伝えられ、他方、海中音はボンベに密着し、布で覆われた小さな拡声器を通して、普通は聞こえない海中の音にふさわしくいわば非開放状態で、ボンベの中に伝えられる。かくして、音という一つのエネルギーの、二つの態様が、空間化(可視化)された状態を伴って示されるのである。しかもここでは、この二つの態様は、それぞれが二つの場所を含んでいるわけだ。
オリーブの山の上と牛窓の町の間の距離は、(サイレンとか船の霧笛などを除いて)特定の物音を聴きわけるには遠く、しかし、下界のざわめきの遠い気配を感じえないほど離れてはいない。この場所を一度ならず下見した村岡は、きっとこの距離をまず直観的に計算に入れたにちがいない。下界の音、しかし特定はできないざわめきや海中の音を、山上で聞えるようにすることで、いいかえれば遠い気配だったのを増幅することで、山上と下界との間に広がっている空間を、にわかに、いわば厚みのある、手応えのあるものとして、我々に感じさせるに到っている。
しかも、我々は目を閉じて音だけを聴いているのではない。その空間を、眼でも見ている。つまり、異なる感覚の交錯というか混合というか、そういうことがここでは起っているのである。
千葉成夫『村岡三郎の作品について』より(「牛窓国際芸術祭」カタログ 1988 JAPAN牛窓国際芸術際事務局)