建畠晢『村岡三郎-問いなき回答』より

この日馬は/蹄鉄を終わる/あるいは蹄鉄が馬を (石原吉郎)

目を閉じ、舌を突き出す。すると舌の先から激しく熱が奪い去られて行く。時間とともにつのるその感覚(試してみたまえ)を、村岡三郎は唐突にも宇宙の測定であると言う。今、舌先に触れている宇宙、その戦慄的なリアリティー。巨大な星々の棲む空間から伝わる冷気。目を開けば、それはまたユーモアの極みでもあるのだが-。
このささやかにして壮大な“実験”のうちにわれわれが垣間見るのは、観念を物質的な体験としてのみ捕捉しようとする、一人の孤独な彫刻家の姿である。舌がもし言葉の象徴であるならば、このジェスチャーは言葉の放棄であり、その同じジェスチャーが宇宙の冷ややかさを触知する。だからこうも言うことができるだろう。村岡三郎はある断念の上に立って、啓蒙的であること、歴史を共有すること、すなわち内なる共同体を放棄し、密室にこもる一人の思索者(発熱する舌)へと自らを向かわせたのだ。それは政治としての異端の姿である。彼もまた時代に対峙する絶対的な他者であろうとするのである。
舌を出すことは、日本では嘲笑のしるしでもある。彼はその舌を石膏の型に取り、鉄の本の一冊に危険なモニュメントとして封じ込める。鉛板で隠されたその不気味なオブジェのタイトルは「熱の先端」!

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そう、一般的な意味でなら村岡三郎はオブジェの作家と言えるだろう。特に80年代前半、歴史の復権がアイロニカルに喧伝されていたあの風潮のなかで、彼は孤立すること自体に意味があるかのように、科学的な実験に擬せられたオブジェの制作に密室で専念していた。
ここに私が(勝手にではあるが)オブジェ三部作と呼んでいる作品がある。一つは1985年に制作された「塩の先端」である。太い鉄の棒を壁に立て掛けただけの作品だが、棒の下端は鋭く尖っていて、そこに塩が白く粉を吹いている。灼熱した鉄に塩水をかけ瞬間に蒸発させた結果が、そのまま提示されているのである。それは単なる事実としてわれわれの前に非情な光景をなしているにすぎない。だが、たとえばこう考えてみる。NaClという化学記号で表される物質に先端があり(当然ありうるだろう)、それが“ここ”に現象しているのだと。触覚を生理的に緊張させる鉄の鋭い先端は、彼にとってはおそらく観念と物質の遭遇するスリリングな場所として意識されているのである。リテラルな還元とは全く別個の相のもとに捉えられた事物の直接性は、むしろ私有されざる表面の不安をわれわれにもたらすが、その謎はイデアとその現象と強引に結び付ける擬似科学的な詐術によってしか解消されえない。いや詐術であるか否かを見抜く術すら知らぬままに、われわれはこの密室の思考の不明の回路を受け入れるしかないのである。
そして「直角の水」(1983年)と「折れた酸素」(1985年)。前者では直角に折れ曲がった鉛の袋が鉄の台に載せられており、後者では壁から金具でやはり鉛の大きな袋が吊され、その袋も下の方で折れている。鉛でくるまれた闇の中で、ひっそりと、だが疑いようもなく水は直角をなし、酸素は折れ曲がっているだろう。一切は如実な具体性をもって示される。そこにはイメージの飛躍もなく、意味論的な葛藤もない。だが、その具体性の背景を見ようとする時、われわれは異様な不透明さ、もしくは空白に直面することになる。それはただ曲がっているのであり、それ以上遡求しようがないのである。

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たしかに本来的には固体の属性である“角度”を水に与えたのは、メタフォリカルな範疇的秩序の違反であるとは言えるかもしれない。また気体を折る方法に気付いた最初の男としての栄光も村岡のものだろう。「ユーモアという高次元の現象は、くそ真面目さの果てにしか立ち現れない」と自ら厳かに「申しそえる」ように(村岡三郎「たしか中学生・・・」)、彼の“科学”は笑いときわどい関係におかれている。だがそのことはオブジェのなす非情な光景、その絶対的な不透明さを和らげるものではない。観念の物質化に没頭することの理不尽さが、時として見るものの笑いを呼ぶだけの話である。それらはレディ・メイドのオブジェのように二義的に“引き裂かれて”いるわけでもなければ、シュルレアリスムのそれのようにメタモルフォーズの力に拠っているわけでもなく、またポップ・アートのように“死んだメタファー”であることを誇示しているわけでもない。要するに村岡のオブジェは本質においてはメタファーとは無縁のもの、メタフォリカルな偏差とも、その解消とも関わることのないものなのである。
“意味”はあらかじめ断念されているのだ。であるがゆえに何の飛躍も葛藤もなく、すべてはおそるべき直接性において提示される。デュシャンは「回答はない。なぜなら問いがないからだ。」と述べたが、村岡のオブジェは、言うならば問いを欠いたままに示された回答なのである。塩、水、酸素がその歴史的な陰影を奪われ、つねに化学記号的な物質としてのみ扱われるのは、彼の断念の深さを物語るものである。あえて言えば、それは世界から意味が引き上げてしまった後に、地上に残された物質、反フェティッシュとも言うべきものだ。

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そしてまた鉄である。村岡は何よりも鉄を偏愛し、生活の至近距離にあるはずのこの金属から引き出された思わぬ修辞的快感によって、われわれを魅了する作家なのだ。
たとえば80年代後半に何度か制作された「熔断」という作品がある。径6センチ、長さ10メートルほどの鉄の棒を、端から端までアセチレンのバーナーで切断していったもので、熱のために弓状に反った棒の周囲の床は黒く焦げ、溶け落ちた鉄屑や煤がこびりつき、激烈かつ冷酷な行為の跡を歴然と残している。強引に断ち切られたその断面もまた半ば溶けた肌に炎の条痕をとどめた、無惨な姿をさらす。彼のオブジェが世界への断念において成り立った純粋物質であるとするならば、「熔断」はその歴史なき物質の空白をあばくための過剰な身体的介入、逆説的なタブララサの敢行なのである。
だがわれわれはそこにもう一つの、私的な意図を見なければなるまい。彼は行為によって、その無償の激越さによって、観念を歪ませようとしたのだ。鉄が反る時、その形状に沿って、(鉄という)観念もまた反りかえるとでもいうように。それは単に修辞的な空しい願望にすぎない。だが修辞は力である。物質的な想像力を触発する力、今、われわれの目の前で観念を歪ませているまぎれもない力なのである。

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鉄からその固有の修辞的快感を引き出したものは、熱、いや正確には失われた熱の記憶であろう。
村岡はこの展覧会に七冊の「アイアン・ブック」を出品するが、その多くは熱にまつわる記述、すなわち熱を記憶させた鉄の頁ともいうべきものである。見台に乗せられた“本”は二枚の部厚い鉄板を蝶番で綴じたもので、表紙には把手が熔接されている。「旋回する熱」と題されたその一冊を開けてみよう。見開きに対称形の弧状の黄色い線が現れる。これをまず左頁に、硫黄液で親指と人差し指のコンパスによる弧を描き、灼熱させた右頁をその上に閉じたものである。硫黄液は瞬間的に気化し、熱は弧状の記憶として鉄板に黄色く結晶する。そして把手を持って再び重い頁を開けば、その記憶が蝶番を軸に“旋回”させられるというわけだ。
また「熱の穴」。ほぼ全面が硫黄で覆われているが、頁の中央だけが黒く残され、小さな穴が刳られている。中には彼が中央アジアの旅で採取してきたというスカラベの小さなミイラが置かれ、その横に交差する線は採取地、ホータン自治区の緯度と経度を記す。「このものは“熱の穴”から弾き出されてきた」という彼のコメントもまた非情なものだ。砂漠とミイラを収めた鉄の頁。そこに記憶された熱は、極度の乾燥と停止した時間を、つまり死を感じさせるに過ぎない。
「πcmの三つの釘」。これは灼熱させた鉄板に、π=3.14cmの釘を打ち込んだものである。円周率を計算するよりも、それを力ずくで鉄の中にのめり込ませるという、途方もなくナンセンスな作業(その真剣な姿を思えば笑うしかない)である。だがハンマーを持つ手に伝わったその抵抗感は、抽象的な数を物質の熱に向けて叩き込むという、これも一種の修辞的快感を鉄から引き出しているはずだ。三つ並んだ釘の頭は今は頁の上で空しく冷え切ってしまっているのだが-。

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「酸素-ヴェネツィア」と題された、もう一つの出品作品にも触れなければなるまい。この新作は、垂直に立てられた長さ6メートルの部厚い鉄板と六本の酸素ボンベからなる大作で、ボンベの一つは鉄板の端にぴったりと熔接され、他はその先から壁までの間に等間隔に並べられている。壁際の一本を除いて、ボンベはすべて石膏を塗布した帆布の包帯でミイラのように白く巻きくるめられ、鉄板の一部も同じ帆布で覆われている。最後のボンベと向き合った壁には、目の高さのところに、ドローイング(と言っても炭素粉を手のひらで水平に勢いよく引き伸ばしただけのもの)が直接描かれている。鉄板は一個所だけ、帆布ごと斜めに熔断されており、また端の方にはスピーカーが内向きに密着させてある。ここにはベニスの海に仕掛けた水中マイクロホンから、海中音が送られてくるはずである。
ボンベのずんぐりした形状が、曖昧にではあるが人型を思わせるとすれば、帆布はその喩を封じようとするものであろう。事実、巻き残されたボンベは壁に激しく息を吐く。噴出された酸素が、手のドローイングの炭素粉を吹き飛ばしているのだ。一方、伏せられたスピーカーは鉄板にひたすらに海の音を移入しようとする。もとよりそれは不可能な夢、「ユーモアという高次元の現象」という作者の威圧的な言葉によっても救われることのない、意味の空白だけを露呈させる観念の装置である。

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密室での思索の回路を冷やかに閉ざしたままに、われわれの前に残された物質の光景。それはもし“なぜか”を問うならば、あまりにも白々しい眺めであろう。感覚的な流通と交換が、感覚的であるというだけで肯定される社会に、村岡三郎は“消費”されようのない時間と距離を重々しく挿入する。それは時代の中に政治的にもたらされた空白である。根源的な異者としての諧謔精神をもって、彼は偏愛する金属を次々とわれわれに送り付けるであろう。一方的に。それは問いなき回答である。ただ私は、この人を見よと言うほかはない。

建畠晢『村岡三郎-問いなき回答』より(「ベネチア・ビエンナーレ」カタログ1990、日本交流基金)